みにくいだけのアヒルに幸せは訪れるのか

 僕の大嫌いな童話の一つに「みにくいアヒルの子」がある。

ヒルの子として育てられ、その醜い姿ゆえにイジメられるが、実は白鳥であり最終的に人生大逆転を決める、というみなさんご存知のアンデンセン童話だ。これがいつ読んでもひどい話である。

 

 生まれたその瞬間から容姿をバカにされ続けるのである。

 

「なんてみにくい子なんでしょう」(誕生の瞬間、隣のおばあさんアヒルのひとこと)

 

「みんなかわいい子供たちじゃ。だが、あの子だけはなんてみにくいんじゃ」(ヒナたちの誕生を祝うなか、村の村長が発したひとこと)

 

「おまえがみにくいからぼくたちまでバカにされるんだ!どっか行け!」(兄弟たちからのコメント)

 

「みにくいからつつきたくなるのさ」(近所のアヒルから総攻撃されて)

 

 このように何かにつけ「みにくい」と罵倒され続けた結果、単にカエルが別方向に歩いていくのを見かけただけで「僕がみにくいから逃げるんだね。。。」と被害妄想に取り憑かれるみにくいアヒルの子

 

 しかし、この悩みも時間の問題であった。成長し白鳥となったみにくいアヒルの子について最後にこのようにまとめられている。

 「みにくいアヒルの子はどんなに辛くても一生懸命生きました、そして最後に幸せをつかんだのです」

 

 みにくいアヒルの子は白鳥だった、というだけで幸せをつかんだことになっている。

つまり「美しい=幸せ」という価値観だ。ならば、「本当にみにくいだけのアヒル」だったら幸せを掴めなかったのであろうか?

 

 世の中、「本当にみにくいだけのアヒル」に対して「おまえはいつか白鳥になれる。だから頑張れ!」と言ってくる奴が結構いる。こんな無責任なこと言う奴が大嫌いだ。頑張っても変わらないこと、どうしょうもないこと、いっぱいあるのに。みにくいならみにくいなりに最大限周りにおいつけるよう頑張るべきなのに。普通にすらなれない人が普通以上の特別な存在になれるだなんて限らないのに。

 

 例に馬鹿が「勉強しても成績が上がらない」と嘆くのに対して「甘ったれるな、勉強の量が足りない」と言う大人を挙げる。たしかに言ってることは正しいが、上がらんものは上がらんのである。自分もいくら頑張っても英語の成績だけは全く上がらなかった。なので自分は英語を使わない方法で大学に行くことにした。得意なもので勝負すればいいじゃないか。

 

 みにくいまま幸せをつかむことだってできる、僕はそうだと信じている。

 

 ところで「みにくいアヒルの子」のラストは美しい白鳥になったのでこれからは幸せな日々が訪れると断言されているが、白鳥のなかに入ったら入ったで、低学歴だの実家が貧乏だの、さまざまな角度から罵倒され白鳥カースト底辺になる可能性だってあるじゃないか。

 

 やはり大事なのは美しくなることではない。